流行り病に罹患した話

世間の流行には人一倍疎いくせに、先日某流行り病に罹患した。寮や外部団体での立場のこともあり、多くの人間に多大なる迷惑をお掛けしたのだが、それはまたさて置かせて頂くとして、某流行り病の恐ろしさを伝えることができればと思い記す次第である。

 

体の異変を感じたのは、7月中盤のとある日曜日の夜のこと。会議の後に、いつもはそんなことをしないのだが、椅子を並べてその上で寝ていた。小一時間ほど寝た後に、これじゃ休まるもんも休まらんと思い布団へ体を移す。寝付こうとしたが、今度は一向に寝付けない。1~2時間ほど布団の上にのたうち回ったあと、これは流石におかしいと思い熱を測った。この時点で38.5度。

 

僕はあまり体が強い方ではない。特に2年前にマイコプラズマ肺炎で入院してからというもの、特段弱くなった印象がある。1~2か月に一度はひどめの風邪をひく。今回もそれだろうと高をくくり、部屋員には僕の寝部屋に立ち入らないよう伝え眠る。いつもと同じく、寝たら熱が下がるものと思っていた。病院に行くこともこの時点では考えていなかった。そもそも、どこかからもらうようなことをした覚えもない。

 

しかし。熱は一向に下がらなかった。時折起きては差し入れられたポカリに口を付け、泥のように眠り続けた。毛布を冬のものから変えていなかったので、とにかく暑くて仕方がなかった。変えねばと思いつつ、夏用の布団を引っ張り出すのもめんどくさい。そんなことを思いながら2日間を過ごした。そして、二日後の夕方にようやっとちゃんと目を覚ました。熱は下がっていた。ほら見たことか、いつもの風邪だったのだ。

 

そこから一晩は通常の生活に戻った。授業の補講があった。課題は無論山積みだ。丸二日間関われなかった分、部屋の仕事もせねば。一通り終えて再び眠りについた。起きた瞬間に嫌な予感がした。熱を測ると39.5度。その日の朝の寮費支払い事務を変わってほしい旨を部屋員に伝え、病院に行くことを決めた。

 

しょちゅう発熱しているということを書いたが、こうなるともう慣れたもので、#7119に電話して発熱外来を紹介してもらい、受信することとなった。タクシーを使うのはもったいないので、自転車で行った。幸いにも解熱剤が多少効いていたので体は楽だった。医者は僕の喉を一瞥すると、「扁桃腺が腫れているため、それに起因する熱と考えられます。2~3日で改善するでしょう」と言った。

 

ただし同時に、「コロナの感染も考えられるため、PCR検査は受けてください」とも言った。今思い返せば英断である。この時点で、熱と頭痛以外の症状は無かった。聞き取りのみであれば問題ないとされるレベルだ。かくして検査を受けたのち、寮内隔離生活が始まる。

 

隔離された先でも、ずっと寝ていた。今回の欠席であの単位は落ちるな。僕がこんなことになっているのは不甲斐ないな。そんなことをずっと考えていた。気が付くと夜は明けていて、検査結果が届くとされている朝が来た。まあどうせ今回も陰性だろう。早くみんなの所へ帰りたいなと思っていた、というか願っていた。咳が出るのは気のせいだと思った。

 

10時50分、携帯が鳴った。本当の予定であれば、11時になったらこちらから連絡をするようにと言われていた。嫌な予感はした。「検査の結果陽性でした」医者はそう言った。眩暈がする思いがした。実際してたのかもしれないが。そこからはひたすら各所に連絡を取った。寮長、ゼミの教授、大学事務各所、保健所。慌ただしく電話をしつつ、時々眠った。気が付くと日が沈んでいた。寝る前に部屋員にドアの前に置いておいてもらった甘いジュースを飲んだ。美味しくなかった。

 

次の日は保健所からの電話で目を覚ました。入院か自宅療養かを判断する電話である。この時点で、かなり咳が出ていた。トイレに行くときに、壁に手をついていく必要があった。人と話をすると咳が出た。数年前に経験したもの、「肺炎」の文字が頭をよぎった。住んでいる場所が寮であることを告げ、なるべく自宅外での療養にしてくれと強く頼んだ。入院する運びとなった。

 

正直に言おう。自分が罹るまで、僕はこの流行り病を舐めていた。自分の周りでも罹患した人はいたが、どの人も軽症で済んでいたからだ。若者はそんな簡単に「重症化」するはずがない。かかっても数日寝ていれば治ると。

 

が、僕はもうこの時点で、「早く入院したい」という思いでいっぱいだった。何故か今年に限って北海道は猛暑だし、早いとこ涼しい部屋で点滴でも打たれて寝ていたかった。これは僕だけかもしれないが、肺炎の時は上を向いて寝ている方が楽だ。咳が出るだけなら、横を向いた方がよいと以前に誰かに言われたが、あくまで感覚として、肺炎になるといかれた方の肺を下にすると咳き込むし、逆にすれば逆の肺がキャパを迎える。総じて、入院の迎えが来るまで天井を眺めていた。

 

病院に着くと、全身ビニールのエプロンや帽子というものものしい恰好をした看護師が対応してくれた。傘のふちの周りにビニールが貼られた、歩くとしゃなりしゃなりとかいう効果音が付きそうな傘を渡され、そのままCTスキャンを経て病棟で運ばれる。

 

荷物を整理して、入院の説明が一通り終わった頃に医者がCTスキャンの写真をもって病状の説明をしに来た。その写真には見覚えがあった。指を指される前に、肺の一部分に白い影があることが見て取れた。(※写真右下、黒いはずの部分が白い)「肺炎の所見が見られるので、中等症です」と告げられた。うすうす気付いてはいたが。

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ここで初めて僕は「中等症」という区分があることを知った。おおむね、肺炎から判断できる分類なのだそうだ。では、重症とは?医者は人工呼吸器が必要なレベルだと言った。なるほど。(※これに関しては、以前Twitterで流れていた安川康介氏作成の表に詳しい。https://twitter.com/kosuke_yasukawa/status/1417233749079732227?s=20

「急変する人もいるけど、君は若いから大丈夫だよ」そういう医者の声がまじめなトーンだった。こういう時の、「大丈夫だよ」があまり大丈夫ではないことくらい分かる。海に沈んだ東京を眺めてかくのごとく言い放ったかの少年の台詞に近い。

 

もしかしたら死ぬかもしれない。本気でそう思った。一つに、効く薬がない。これが一番恐ろしい。確かに、「効くとされている薬」ならある。もっとも僕の場合は、投与したはいいが副反応が出て、全身が発疹だらけになって結局使用を中止したが。39度出るインフルが大して怖くない理由は、薬と予防接種があるからだ。

 

もう一つは急変のリスクだ。これは僕は病院に入れただけマシだった。四六時中、心電図とパルスオキシメーター(※血中の酸素濃度を測る機械みたいなの)に繋がれ、異常があれば看護師が飛んでくる。ナースコールを押せば看護師が来てくれる。自宅療養と病院が同じみたいなことを言う政治家はいるが、寝言は寝て言ってほしい。この安心感が、看護体制が、どれほど不安感と死亡リスクを減らすのか考えてみろと本気で思う。

 

急変のリスクについてのもう一つの話なのだが、院内放送の話がある。入院経験がある方なら分かるやもしれぬが、例えば緊急対応なら「コードブルー」という放送が鳴る。コロナ患者対応でも同じような放送が鳴った。「コード〇〇、~(場所)から救急外来/職員出口へ」といった具合にだ。一回だけ「地下室へ」という放送が鳴った。その意味を考えたくはなかった。なお、僕の病院には中等症患者しかいなかったと聞いている。

 

あのまま寮内で隔離されていたら、少なからぬ確率で死んでいたと本気で思う。

 

入院生活は暇だし、孤独を募らせるとろくなことがないので、遠方にいる友人とzoomを繋いだりしていた。あと、同じく寮内で隔離されていた部屋員が居部屋代わりのzoomを開いていたので時折顔を出した。話すと咳は出たけど、これにだいぶ救われる思いがした。

 

 

なんだかんだ、入院して3~4日もすれば熱も下がってきたので、退院が見えてきた。のんびりできるかと思ったが、そうもいかないらしい。それだけ病床もひっ迫していたということだろうと思う。発症から10日もすれば他者への感染性はほとんど無くなるということで、それに合わせて退院という運びとなった。

 

結局最終日には医師の回診もなく、バイタルチェックだけしてそのままリリースされた。若いから大丈夫だからと。僕はブラックバスかと思った。あれはリリースしちゃ駄目か。

 

ともかくもめでたく退院したはいいが、しばらく後遺症は残った。主たるものは咳と嗅覚障害だ。咳に関しては、退院してから1週間と少しくらいはゴホゴホしていた。寝ようとしたら発作的に咳が出て、しばらく眠れなかった日もある。嗅覚障害に関しては、いわゆる風味的なものが感じ取れない状態だった。分かりやすいもので言うと、どん〇衛が美味しくなかった。あれはだしの風味をもってめちゃくちゃ美味しい食べ物なので、そのだしのにおいが分からないと実はゲロまずなのである。

 

それも近頃だいぶ治ったので、一区切りとして筆を取った次第である。

 

貴重な(?)若者の中等症ということで、どなたかの参考になれば幸いである。もし以前の僕と同じく、若者だからと考えている人がいたら、ここは一つ認識を改めていただければと思う。あと、ワクチンに関しては僕は受けることを強く推奨させていただく。若者であるからとて軽症で済む保証などないので、自分のためにも他人のためにも是非受けてほしい。

 

この話を肴にして大人数で酒を飲めるのはまだ先か、それまで身の回りの誰かが欠けてほしくはない。ただそれを願っている。皆様体調にはお気をつけて。

 

余談:

大学生活4年中肺炎で二回入院。いずれも左肺。将来的に肺はやばそうだ。

「凪を祈らない」

生きていることで常日頃感じている感覚を言葉にするならば、それは波打ち際に足を浸していることと形容できる。

 

僕はいつも水平線を眺めている。凪いでいる日もあれば荒れている日もある。ひときわ高い波に見えても、たかだか膝下数センチを撫でていくだけのこともある。ひときわ低い波に見えても、大きくうねったそれが胸を流し心臓に冷たさを残していくこともある。

 

波に溺れて流されてしまう瞬間を最後としよう。ここから動いてしまえばよいのだが、動こうにも足はとうに動かない。だから僕はいつも海をただ眺めている。ひときわ高い波がいつか来て、僕を呑み込んでいく。その瞬間をただ待っている。

 

それはきっと仕方がないことだ。でも、ただ待つことも退屈なので僕は考える。空が「青い」ということを言葉にする方法を。歌を歌う。波の音にかき消されてしまいそうな声で、言葉を風に乗せる。空を見上げては、雲に乗っている怪獣を探す。何処からか聞こえるセイレーンの歌声に耳を澄ます。足に引っかかったサンゴを拾う。

 

いつの間にか夜は明けているし、日は沈んでいる。今日も膝が濡れている。最後が来ることを知っている。だけど僕は、凪を祈らない。

「無力」

最近、昔ほどは「無力感に苛まれる」ことが無くなった。

 

きっとそれはここ最近で出会った人たちのおかげだと思う。そんなことをつらつら書こうと思う。

 

完璧になりたかった。

よくタスクを抱え過ぎだと言われるし、自分でもそう思わなくはない。(なんだったら今でも抱えてるし、一年前はそれで倒れたしってのはまた別の話。)

 

でも、いくら抱えてたとしても、自分がもっと頑張ればきっとなんとかできるはずだ。そうするのが「かっこいい」ことだと、そうすべきなんだと信じて疑わなかった。できないのは自分の努力が足りないせいだ、余計なことをしなければこなせるはずだ。

 

そう思ってたらいつの間にか、多分心のどっかを壊してた。自傷行為に近いことをしてたこともある。

 

学校が始まったらそんなことも言えず、学業に追われながら日々を過ごしていた。研究テーマの決定に当たって文献を読みあさる中で、ホームレスの人に対する支援について記した著作に行きついた。

 

そこで、ホームレスの人は物理的困窮(家、金がない)に加えて、他者との関係性の面でも困窮しているという意見を目にした。(奥田知志氏の著書より)

(実際はそうとも言い切れないのが難しいところではあるけれど。)

 

そんなこんなで札幌市におけるホームレスの支援について研究をすることになった。今思えば、「困窮した人を救う方法」を研究する中で、どこか自分も救われたかったのかもしれない。人間には無意識的な「最後の防衛本能」っていうのがあるというのが持論だけど、自分の場合はこれだったんじゃなかろうか。

 

研究を進める中で、多くの人の話を聞いた。その中で、印象に残っている話がある。

「支援とは、適切なところに繋いでいく、戻していく行為なのだ」という内容だ。

 

「ホームレス」といっても様々な人がいる。何らかの障害を持っている人、怪我で職と家を失った人、何かしらの罪を犯してしまった人。枚挙にいとまがない。そんな多様な人々に対して、一人一人にずっとつきっきりで支援を行えたらそれはそれで理想かもしれない。

 

でもそんなの無理だ。

何人もの他者の人生を一人で背負うなんて芸当、神様にしかきっとなしえない。その点で言うなれば、大変失礼な物言いだが、支援者一人はひどく「無力」だ。

 

じゃあどうすればいいか、その人にとって適切な場所や人に繋ぐのだ。一人だけで支援を完結させるのではなく。

 

では、その行為を担保するのは何か。自分はその答えを「繋がり」に見た。

支援者―被支援者間で言えば、被支援者が「困ったときには頼れる」関係性。支援者―支援者間で言えば、支援者どうしで「相談できる」関係性。そういった小さな関係性が生み出す緩やかな繋がりの中で支援のあり方が模索されていた。

 

その様子は、自分にはとても「暖かく」映った。

 

その時気づいたのだ、自分は「無力」でいい、だけど人との繋がりの中に生きようと。自分で何でもしようとするのを辞めよう、辛くなったら人に頼ろう、頼れるだけの関係性を他者と築くようにしよう。

 

そして同時に、誰かにとっては頼れる人になりたいと思った。

 

そうしたら少しだけ生きるのが楽になった。今でも辛い時はある、そんな時は酒瓶持って友人に会いに行く。まあ随分図太くなったもんだとも思う。(酒カスになっただけか?)

 

自分は「無力」だ、だから人と繋がらなきゃ生きられない。

でも、それでいいって今では思う。

「むじゃ」

8月13日

山にくわがたをとりにいった。でもおとうさんがくれた「そうがんきょう」をなくした。さがしてたら「むじゃ」にあった。けむくじゃらで、なにかゆうと「むじゃー!」ってゆうから「むじゃ」。ひとりでないてたらくすぐられた。しかえししたら、やっぱり「むじゃー!」っていう。ずるい。けどちょっとかわいい。

1年〇〇〇〇△△△

 

8月14日

「そうがんきょう」をさがしてたらきょうも「むじゃ」がいた。「むじゃ」はいろんなことしってた。くわがたがいる「じゅえき」、あけびがあるばしょ。大きい「みやまくわがた」をつかまえた。おかあさんもすごいねっていってたから、ぼくもうれしかった。「そうがんきょう」はなかった。でもたのしかった。

1年〇〇〇〇△△△

 

8月15日

きょうも「むじゃ」とあそんだ。ぼくはぷれぜんとで「ちょーく」をもってっていっしょにおえかきした。きにいっぱいもじかいた。「むじゃ」もけで「ちょーく」もってかいてた。すごいなっておもった。じがけっこうじょうずだった。すごい。

1年〇〇〇〇△△△

 

8月15日

山にいったらいのししがいた。大きくて、おこっててすごくこわかった。でも「むじゃ」がたすけてくれた。おおきいないのししにずっと「むじゃー!」ってゆってて、かっこよかった。「ひーろー」みたいだった。ありがとってだいすきしたら、すごくあったかくて、お日さまみたいなにおいがした。

1年〇〇〇〇△△△

 

8月16日

あさはすごくあめがふってた。山にいけないから「むじゃ」にあえなくてさびしかった。ゆうがたあめがあがったので、にわで「おくりび?」をもやした。おとうさんにばいばいしようっておかあさんがゆってた。よくわかんない。おかえりは?ってきいたら、わすれてたって。おかあさん、ぼくよりうっかりだ。じゃあもっともやそうってゆったらちょっとおこられた。

1年〇〇〇〇△△△

 

8月17日

山にいったけど「むじゃ」はいなかった。さがしてたら「そうがんきょう」を見つけた。きにぼくのなまえがかいてたから、「むじゃだ」っておもったけど、やっぱりどこにもいなかった。「そうがんきょう」はうれしくて、でも「むじゃ」はいなくてかなしくて、やっぱりかなしくてないてたら、おかあさんがぼうしをくれた。おとうさんのだってゆってた。お日さまのにおいがした。

1年〇〇〇〇△△△

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妄想絵日記企画とかいう面白そうな企画を寮でやってたから書いてみたものの、完全に趣旨を違えていたのでこの場にて供養。結構気に入ってはいる。むじゃー。

 

文責:遥晴

「一年後の夏」

 昨年のちょうど今頃、病院から退院した。普通だったら入院するほどではないマイコプラズマ肺炎だったのだけれど、医者にかかった時には既にだいぶ進行していたこともあり、そのまま10日間ほど入院することに相成った。

 

倒れる少し前、夜10時から朝4時までひたすら市場で野菜を運ぶバイトをしていた。海外インターンシップに参加することが決まっていて、その資金のためだった。バイトを終えて家に帰った後は、シャワーを浴びる気力もないまま布団に倒れこみ、授業が全部終わったころに目を覚ます。そんな毎日だった。

 

レポートを書こうにもインプットがないのに書けるはずもない、気が付けば取れそうな単位は消えていた。脚本を書こうにもそれに向き合う時間がない、ただ不安感だけが増していく。6個入りのメロンの箱を運んでいる最中にそれを思い出してしまうのだからたちが悪い。思いついた言葉はいつの間にか頭の中から零れ落ちていた。

 

そんな毎日を続けた上での肺炎だった。倒れる一日前には、何を感じたのかは知らないが、日の当たる窓辺で遺書を書いていた。倒れて布団の中にいるときも、このまま死ぬのだとしたら、よく頑張ったと誰かが言ってくれるんじゃないかとかそんなことをずっと考えていた。

 

遺書の内容はおおむねこうだ、夏の良く晴れた日に死にたいと。今背負っているものの全てが終わった時、自転車に乗って旅に出てそこで死のうと。一年後の夏に。

 

一年後の夏、なんやかんや背負うものがまたできてしまって、今日もなんとか生きている。きっと来年の夏も、同じような理由で生きているに違いない。

 

文責:遥晴(ネギ)

「ヒスイの街にて」

「ヒスイの街にて」

 

4月25日

 たどり着いた先は寂れた街だった。客待ちのタクシー運転手はあまりに暇を持て余したのか居眠りをしているし、駅前に目立つものといえばカラオケ屋くらいしかない。海へと続く商店街からはオルゴールの音が聞こえた。予約したホテルは駅前にあったのだが、ドアをくぐるまでそれと分からなかった。

 部屋に入ると耳障りな音とともに蛍光灯がうすぼんやりと灯る。猛烈な睡魔に襲われて、上着も脱がないままベッドに倒れこんでそのまま寝てしまった。電車に乗っていただけで何も生産的なことはしてないのに、そう思ったような気がする。

 

4月26日

 せっかく旅に出るのだ、日記でもつけてみよう。意気揚々としながら100均のB5ノートを買ったのに、まさか一日で挫折するとは思わなかった。昨日分の日記は今書いた。

 朝は轟音で目が覚めた。変な体勢で寝ていたためか足に違和感がある。腕時計を見ると時刻は五時だった。新幹線が通る駅だということをこの時に思い出した。外の空気を吸いに行こうと思い、脱ぎ散らかしたスニーカーに足を通した。

 空が微かに白んでいる。あたりに人通りはなく、カモメの声だけがこだましていた。商店街沿いに白い石が置かれている。きれいに磨かれたものもあれば、不格好な形をしているものもある。「ヒスイの街へようこそ」、石が鎮座している台座にはそう書かれていた。そうか、彼が言っていたのはこれだったのか。

 一通り街を歩いて部屋に戻る。コンビニが開いていたのは幸運だった。が、部屋の前に立った時、鍵を持っていなかったことに気が付いた。フロントは開いておらず、「非常時はこちらまで」と書いた札が置いてある。わざわざ起こすのもしのびなく、もう少し街を歩き回ることにした。

 そろそろ時節としては春になるとは言え、日本海の波は荒い。海岸沿いに見渡す限り並べられた消波ブロックの間には、昆布と思しき海藻やハングルで書かれたペットボトルなどが取り残されていて、夜の波の激しさを思わせる。コンビニで買ったおにぎりの海苔が風に吹き飛ばされてしまったのが口惜しい。

 明るくなるのを待ってなんとか部屋には帰れたものの、ここまでの日記を書きつけたところで急に体調が悪くなってきた。防寒具の持ち合わせがなかったのが悪かった。頭痛がひどい。今日は一日寝ていることにする。

 

4月27日

 またも轟音で目が覚めた。頭痛はなかったので、日中の暖かい時間を待って外に出ることにする。目的の海岸は隣の駅からほど近いところにあるらしかった。電車は閑散としていて、けだるそうに単語帳を眺める女子高生が隅にぽつりと座っていた。

 海岸というからには砂浜を想像していたのだが、そこは一面に砂利が広がっていた。記憶が正しければ、ここにヒスイがたくさん落ちていてすごい値段が付く、などと彼が言っていたような気がするのだが、甘かった。どれがヒスイなのか全くもって分からない。そもそも、そんな宝の山に誰もいないはずがない。青い水平線を一人眺めた。

 白っぽい石を見つけては手持ちのペットボトルに放り込んだ。下手な鉄砲でも数を打てばいいのだ。小一時間経つ頃には500mlのペットボトルが満杯になった。ふと声をかけられて振り向くと、腰の曲がった老人が立っていた。巨大麺切り機?とでもいえばいいのか、竹竿の先に「ざる」を付けた何かを持っていて、見るからに玄人感が滲んでいる。「見てやる」というので好意に甘えさせてもらったところ、一笑に付された。いわく全部石英だそうだ。見つけるコツを聞くと、「波打ち際で光っているのを探せ」と言われたのだが、結局よく分からなかった。波に濡れた石は全部光っている。

 波打ち際を探してみたりもしたが、一度海に落ちそうになり結局諦めてしまった。苔むした地蔵に眺められてはたまらない、そんな合唱曲があったのを不意に思い出した。沖もぼうぼう夕暮れるので帰ることとする。

 

4月28日

 することもないので一日海を眺めることにする。一時間で飽きた。そんな時はものを書くものと鎌倉時代から相場が決まっているので、今日の日記はここで書いてしまおう。

 古い友人が自殺した、と二週間ほど前に人づてに聞いた。彼とは仲が良かったということだけ覚えているのだが、具体的にどう仲が良かったのかもう思い出せない。分数の通分を放課後にひたすら教えたような気もするが、違う友人だったかもしれない。カードゲームのデッキをくれたはいいが、それを使って初心者の僕が勝ちそうになったら、嘘のルールを教えて負かされたような気もする。いや、後者はあったはずだ。思い出したら腹立ってきた。文章にすると思い出すことがあるのは不思議だ。

 ともかく、彼のことを思い出そうとしたときに真っ先に出てきたのがヒスイの話だった。小学生の僕にとってその話はひどく魅力的で、遠く彼方の地に思いをはせたのをよく覚えている。墓前にヒスイでも供えてやるか、そんな理由にかこつけてここまで来たはいいが、手持ち無沙汰になってこうしてただ海を眺めている。

 中学で疎遠になって以降、連絡を取ることもなかった。だから、悲しいとは特には思わなかった。風のうわさで、家を出て一人暮らしをしながら大学に通っているらしいとは聞いた。その境遇は僕もよく分かる。彼は一体何を思って死んだのだろうか。

 

 気が付いたころには眠ってしまっていた。帰路を急ごうとしたものの、帰りの電車が二時間先であることには非常に参った。結局肌寒い駅舎の中で待つことになった。また風邪がぶり返さなければいいが。

 

4月29日

 日程の都合上、今日で帰ることとする。時間の余裕はあったので、また海岸へと足を運んだ。海は昨日と変わらず凪いでいて、水平線の向こう側で空と溶けている。

 結局ヒスイは見つけられずじまいだった。ペットボトルに残った砂利を持って帰ろうかとも思ったが、部屋に置いておくにも邪魔だ。それに意外と磯臭い。一つだけ残して、それ以外は捨てていくことにした。手で掴んで思い切り空に放り投げた。

 その瞬間にふと思い出したのだ。転校生だった僕は、転校先の小学校でいじめを受けた。机がひっくり返されるとか、教科書がなくなるとか、石を投げられるとか。そんな僕を初めて守ってくれたのが彼だった。死にたくてたまらなかった僕を生かしてくれたのが、彼だったのだ。

「なのに君が死んだら、意味ないじゃないか。」

 そうつぶやいた声は波の音にかき消された。たまらなくなってもう一度石を放り投げたその時、雲間からのぞいた太陽に照らされた石の一つが瞬いたのを僕は確かに見た。僕は確かに、そこにヒスイを見たのだ。

 妄想で一向に構わない。また彼に救われた、そんな気がした。

 

 手元に残った石一つは、いつまでも光る気配を見せない。だけど、そのうち故郷に帰った時にでも供えに行ってやろうと思って、今も部屋に置いてある。

 

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 旅行したい欲をこじらせたので、今日が旅行の最終日になる設定の日記兼小説みたいなものを書きました。7割はフィクションです。

「どこかで聞いた歌」

  冬を迎えつつある街の寒さは日に日に厳しさを増していく。そろそろ手袋を出そうなどと考えながら、かじかんだ手でポケットの中のカイロを握る。どこからかクリスマスソングが聞こえた。ふと目をやると、路沿いのレストランが既にツリーが飾ってあることに気が付いた。漏れ出す光はとても暖かそうで、一人歩く自分の惨めさが足を速くさせた。

 

交差点を右に曲がり人通りのない小路に入ると、街の喧騒はだいぶ遠くなった。奇妙な静寂はかえって落ち着かず、耳にイヤホンを当てようとした。その時、ふと耳にかすかな声が飛び込んできた。路の向こうで誰かが歌っている。この寒い日に路上ライブだなんて、まあ随分と酔狂な話だ。そう思った。

 

果たして小路を抜けた先に彼はいた。先が毛羽立ったマフラーに傷だらけのギター、そして俄かに信じがたいかすれ声で何かを歌っていた。指には冬椿のような赤が滲んでいる。通り過ぎてもよかったのだが、道行く人々が誰も立ち止まらないのが不憫に思われて、ふと足を止めてしまった。

 

 下手くそな彼の歌からは懐かしい匂いがした。少年の小さな逃避行の話、手のぬくもりを求めた話、雨に掻き消えてしまった花火の話。いつの間にか色あせてしまった過去を忘れてしまわないように紡ぐ歌、そんな歌だと僕は感じた。いつの間にか時間が経っていて、彼が最後の音を弾いた時には道行く人はほとんどいなかった。

 

「ありがとうございます。」

 

 唐突にかけられた声に僕は戸惑って、口ごもりながら肩をすくめた。彼は苦笑いしながら、手早くギターをしまって「それじゃ」と言って小路へと歩いて行った。その時何を思ったのかはよく覚えていないのだが、遠のく彼の背中に僕は声をかけた。

 

「あの!」

 

 足を止めた彼が振り向く。

 

「僕、本当は嫌いじゃなかったです、あなたの歌。」

 

 初めて会った人に僕は何を言っているのだろう、そう思った。彼は少し照れ臭そうに「ありがとう。」と言って街へと消えていった。一人残された僕は、暖かい家への路を急いだ。

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 以下との連作です。

negi09zakki.hatenablog.com

negi09zakki.hatenablog.com

 

文:遥晴