「無力」

最近、昔ほどは「無力感に苛まれる」ことが無くなった。

 

きっとそれはここ最近で出会った人たちのおかげだと思う。そんなことをつらつら書こうと思う。

 

完璧になりたかった。

よくタスクを抱え過ぎだと言われるし、自分でもそう思わなくはない。(なんだったら今でも抱えてるし、一年前はそれで倒れたしってのはまた別の話。)

 

でも、いくら抱えてたとしても、自分がもっと頑張ればきっとなんとかできるはずだ。そうするのが「かっこいい」ことだと、そうすべきなんだと信じて疑わなかった。できないのは自分の努力が足りないせいだ、余計なことをしなければこなせるはずだ。

 

そう思ってたらいつの間にか、多分心のどっかを壊してた。自傷行為に近いことをしてたこともある。

 

学校が始まったらそんなことも言えず、学業に追われながら日々を過ごしていた。研究テーマの決定に当たって文献を読みあさる中で、ホームレスの人に対する支援について記した著作に行きついた。

 

そこで、ホームレスの人は物理的困窮(家、金がない)に加えて、他者との関係性の面でも困窮しているという意見を目にした。(奥田知志氏の著書より)

(実際はそうとも言い切れないのが難しいところではあるけれど。)

 

そんなこんなで札幌市におけるホームレスの支援について研究をすることになった。今思えば、「困窮した人を救う方法」を研究する中で、どこか自分も救われたかったのかもしれない。人間には無意識的な「最後の防衛本能」っていうのがあるというのが持論だけど、自分の場合はこれだったんじゃなかろうか。

 

研究を進める中で、多くの人の話を聞いた。その中で、印象に残っている話がある。

「支援とは、適切なところに繋いでいく、戻していく行為なのだ」という内容だ。

 

「ホームレス」といっても様々な人がいる。何らかの障害を持っている人、怪我で職と家を失った人、何かしらの罪を犯してしまった人。枚挙にいとまがない。そんな多様な人々に対して、一人一人にずっとつきっきりで支援を行えたらそれはそれで理想かもしれない。

 

でもそんなの無理だ。

何人もの他者の人生を一人で背負うなんて芸当、神様にしかきっとなしえない。その点で言うなれば、大変失礼な物言いだが、支援者一人はひどく「無力」だ。

 

じゃあどうすればいいか、その人にとって適切な場所や人に繋ぐのだ。一人だけで支援を完結させるのではなく。

 

では、その行為を担保するのは何か。自分はその答えを「繋がり」に見た。

支援者―被支援者間で言えば、被支援者が「困ったときには頼れる」関係性。支援者―支援者間で言えば、支援者どうしで「相談できる」関係性。そういった小さな関係性が生み出す緩やかな繋がりの中で支援のあり方が模索されていた。

 

その様子は、自分にはとても「暖かく」映った。

 

その時気づいたのだ、自分は「無力」でいい、だけど人との繋がりの中に生きようと。自分で何でもしようとするのを辞めよう、辛くなったら人に頼ろう、頼れるだけの関係性を他者と築くようにしよう。

 

そして同時に、誰かにとっては頼れる人になりたいと思った。

 

そうしたら少しだけ生きるのが楽になった。今でも辛い時はある、そんな時は酒瓶持って友人に会いに行く。まあ随分図太くなったもんだとも思う。(酒カスになっただけか?)

 

自分は「無力」だ、だから人と繋がらなきゃ生きられない。

でも、それでいいって今では思う。