「迷惑な話」

 山登りが趣味だった。

 

 といってもそんな真剣な登山じゃなくて、標高500~800mの山を歩く程度。災害用のグッズが入ったカバンに、ドライフルーツを入れて。家の近くの山を回った。開けた斜面に一人で座って、水を飲みながらフルーツをかじる。ただ遠くの街を見ながら思いを馳せる。そんな瞬間が好きだった。

 

 とても晴れた日は遠くまで見渡せた。日本で一番高い塔は地面に生えた小さなつまようじで、西武ドームは半分に埋めた卵だった。

 イノシシが山芋を掘った穴に落ちかけた。道すがら生えてる野イチゴはとてもすっぱかった。木にざっくりと付けられたクマの爪痕を見た。

 山に登るのは好きだった。ただ、不思議なこともあった。

 

 ある日、早朝に山に登っていると降りてくる登山者とすれ違った。軽装のご老人。登山では下る人優先なので、僕が道を譲った。すれ違いざまに「おはようございます」と言ったけど返事はなかった。まあいっかと思い過ごしたが、百メートルと少し歩いてふと気づいた。

 この道の終点はかなり遠くにある。

 よく歩く道だから知っていた。少なく見積もっても、僕が登った側の反対の登山口からこの地点まで歩くのに僕で4時間はかかる。ましてや老人。

 軽装だから泊りではない、ヘッドライトもないから夜行でもない。じゃあ一体どこから来たんだ?恐る恐る振り返ったけど、そこに老人の姿はなかった。

 

 冷や汗を流しながら必死に走る。道中、テントをたたんでいる方がいた。いかにもスポーツをしてそうな若い男性だった。おはようございます、声は震えていたと思う。

「おはよう、一人で来たの?元気だなあ。」

 それこそ僕よりよっぽど元気な声を聴いて肩の力が抜けた。ぎこちない笑顔を浮かべながら「泊りですか?」と僕が尋ねると、「そうそう、レースの下見してたんだ。」と言っていた。

 ここらの山では、一年に一度大規模な山岳レースがある。改めてその人の体格を見て、なるほどなと思った。

 

「ちょっと聞きたいんですけど、朝ここ誰か通りました?」

 僕の質問に男性は首をかしげて、

「いやあ、通ってないと思うよ。僕6時から起きててコーヒー飲んでたけど、誰も見てないし。なんかあったの?」と返した。

 予想はしていたけど、予想通り過ぎた。「いえ、何も...。」僕が沈黙している間に、男性は手際よくテントをたたんで。

 「まあいいや。じゃ、気を付けてね。」と言って去っていった。本当はついていきたかったけど、僕が足手まといになるのも申し訳ない。「そちらも、お気を付けて。」とだけ言って別れた。

 

 可能な限り早く歩いて、山頂で日に当たっていた。僕の後ろから登山者が来るまで、ドライジンジャーを少しずつかじりながら、ずっと待っていた。その日が良く晴れた日であったことだけが救いだった。

 あとから来た人と挨拶をして会話ができるのを確認した後、行先が同じであると分かったのでご一緒させてもらうことにした。

 

 後日調べてみたけど、あの山で人が亡くなったという話は特になかった。だけど、その後しばらくは一人で山には行けなかった。

 

 でも今になって思うのだ。僕がもしも死んだら、きっとあの故郷に帰るだろうと。よく晴れた日の朝がいい。僕のイメージ通りの幽霊だったらふわりと空を飛んでいけるかもしれないけど、もしも足があるとしたら歩いていたいと思う。

 雲が移ろうのをぼうっと眺めて、やまなしの甘ったるいにおいを嗅いで、風の音を聞く。飽きてしまって何処かをふらついても、きっとあの場所に帰る。そんな気がする。

 

 まあなんとも、迷惑な話だ。

 

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 これに関しては、8割以上本当の話。他にもあるけど、それはまたいつか。

 

文責:遥晴(ネギ)