カンボジア旅行記~その6~

「世界」 

 今まで言及してこなかったけど、今回の旅行には同伴者がいた。二年生の女子の先輩と、その先輩が入っているサークルの後輩の男子、の計二人。僕はたいして英語が話せないので、二人にはたくさん助けられた。そもそも、旅行に誘ってくれたのは先輩だった。その点、ものすごく感謝している。

 しかしながら、旅をしていれば意見が食い違うこともあった。あんまり楽しい話ではないんだけど。

 僕らは自分たちが恵まれていることに無自覚だという話。

 先日ブログに書いた、「いちどる」の少年。その少年に先輩がこう話しかけていた。

「もっと勉強しよう。そうすれば君は世界のどこにだって行くことができるんだよ。世界はすごく広いんだよ。」って。

 僕らの、日本人の、感覚としてはある意味当然なのかもしれない。僕は、それなりにまじめに勉強して大学に来て、それなりに頑張ってバイトして、海外旅行に行った。

 でも、その感覚のままの言葉をあの少年に言うことはとても残酷な気がした。

 僕が勉強をしてこれたのは、親がそのための費用を稼いでくれたからだ。今まで日々の暮らしをあまり心配することなく生きてこれたこと、そのこと自体がこれ以上ないほど恵まれたことなのだと僕は思う。

 あの少年は、どうだろうか。果たして、勉強するという選択肢があったのだろうか。あの国ではきっと、「勉強する」という行為の価値の重さが日本なんかとは比較にならないと思う。

 僕らが見ている世界と、あの少年が見ている世界の広さはかなり違うと思う。僕にとって世界は、果てしなく広大で、でもどうにかすれば届かなくもないものだと感じる。でもきっと、あの少年にとっては、その日の日銭を精一杯稼いで生きていくだけの場所なのではないだろうか。

 こんな想像は僕の傲慢かもしれない。でも、僕はこう思う。

 僕らは選択肢があるだけで恵まれている。そして、それを当たり前のものとして享受し続けた結果として、その価値に対してひどく無自覚だ。

 その無自覚さが、あの少年を傷つけていたのではないか、と。

 

 僕は先輩の言ったことに違和感を覚えた。しかし、同時にこうも思う。もしかしたら自分も、旅の途中で、上記のような無自覚ゆえに人を傷つけるようなことをしていたのかもしれないと。

 他人は自分の鏡だ。その鏡を見ながら、常に自分自身を見直す必要があるのではないか。この出来事を通じて、そのようにも思ったのだった。